日本人ゲイのAkiです。
ベトナム人はまるで 『葦』のようである、と小説家の司馬遼太郎はそう例えた、とネットで読みました。しかし、その出どころをたどり、司馬遼太郎が書いたその本を実際に読んでみると正確にはそうではありません。
※葦;河川及び湖沼の水際に背の高い群落を形成するイネ科の多年草
『 人間の集団について―ベトナムから考える』 (中公文庫) 初版1974年
司馬はベトナム戦争が終わるすこし前、当時の南ベトナムを訪れ、この本を書きました。その中に葦についての記述があります。
(以下は抜粋です)
「ベトナム人は葦です」と言ったのは解放戦線政権の外相グエン・チ・ビン女史である。巨人であるアメリカは葦の原にとびこんでこん棒をふるったが、葦は薙がれても切れることはなかった、という意味である。この戦争を通してみせたベトナム人の本質をこれほど見事に言いあらわした言葉もないが、形而下的にみてもこの土地の人々は葦の感じで、ひどく植物的である。
※形而下;形を備えたもの。物質的なもの、感性を介した経験によって認識できるもの ※形而上;形をもっていないもの。超自然的、理念的なもの
この文章の中で出てくるグエン・チ・ビン女史はその後、統一ベトナムの国家副主席となった人物で、今でもご健在です。この女史が言われた言葉を司馬遼太郎が感心して引用したのです。また形而下的とは、難しい表現ですが、ようするに内面ではなく、見た感じでもベトナム人は葦のようだ、と司馬は言っているのです。また、ベトナム人は植物的である、とも言っています。
Akiはハノイを訪れると、よくマンゴーを買って、むさぶるように食べるのですが、それは路上で天秤棒を担いだ女性から買います。おそらく彼女はハノイ近郊の農家の人で、自宅でとれたマンゴーを担いでハノイまでもってきて路上で売っているのでしょう。日差しが強いので、ベトナム独特のノンラーという笠をかぶっています。彼女を見ていると、司馬が言った「植物的」という表現がわかるような気がします。ちょっとやせていてしなやかに天秤棒を担いでゆたゆたと歩く、確かに植物的な気がします。
風にそよぐような。
(ベトナムの路上)※ネットからの引用
しかし、ベトナム人彼氏のTuを見ても植物的とは思えません。元々、そんなに痩せてもいないし、テト(ベトナムの旧正月)の後など食べ過ぎて、ぷっくり太っています。肉もがつがつ食べるし。
ときどき、”ああ、ブタになっちゃった” とため息をつくくらいです。
司馬が訪れたのは、40年近く前のことですから、今とは大きく違うでしょう。それにTuの家は農家ではないので、植物的とはならないのかもしれません。しかし、司馬が使う言葉を借りれば、形而上的にはTuも葦のようなのかもしれません。
(精神的と言う意味で)
Tuには、あまりこだわりがないように思えるからです。
Tuの口ぐせは、” No choice"
日本語で言えば、仕方ないよ、これでいこう、みたいなニュアンスです。要するにあるところで妥協するのです。でも根こそぎ妥協することはありません。特に家族や親戚について妥協することはまったくなく、いつも最優先です。葦のように、風に吹かれますが、薙がれることはない。やはり、『葦』という言葉で、今のベトナム人もあらわしていいのかもしれません。
ベトナムを旅して、長距離バスに乗ることがありました。長い時間乗るので、スリーピングバスが重宝します。バスの中に二段ベッドがあってこれに寝転がるのです。事故があったら転落して怪我をするかもしれませんが、意外と快適です。昼間でもうつらうつらすることができて、時間が気にならなくなるのです。
(ベトナムのスリーピングバス)※ネットからの引用
ぼーとしながら、運転席の後ろにあるテレビを見ていました。掛け合い漫才のような、コントのような番組です。もちろん、言葉はわかりませんが雰囲気は伝わります。どこかで見たような、と思って考えると、
これは吉本新喜劇のノリだ、と気が付きました。
次は歌番組です。若い歌手は流行のK-POPのような歌を歌いますが、次にでてきたのは貫禄ある女性の歌手です。
これは演歌だ、それもド演歌。
情緒たっぷりに歌い上げる、昭和の美空ひばりの世界です。
これがベトナムではうけるんですね(年代にもよるのかもしれませんが)
『葦』のような思考、でも情感あふれる世界、
こんな言葉がベトナム人を理解するキーワードなのかもしれません。
Akiにはまだベトナムはなぞだらけです。
ベトナム人の彼氏のTuを裸にして、いろいろ観察してみようと思います。
(ベトナム人) 終わり