Tu&Aki’s Couple Life

ゲイが考える『ベトナム』『アジア』『海外旅行』『日本』『仕事・働き方』そして『大事な彼氏』のこと

二つの城

歴史好きのAkiです。

 

 

 

静岡県浜松市の北方に2つの城跡があります。
誰も知らないような小さな城。

 

行ってみました。

 

一つは堀川城(ほりかわじょう)。

 

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幹線道路の脇に城跡の石碑、首塚もありました。
クルマが頻繁に通るのですが、一顧だにされません。

 

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堀川城址、古戦場、と書いてあります。

 

確かに城跡なのですが、周りは一面の田。
防ぎようがない地形で、ここでどう戦ったのかはなはだ疑問。

おそらく当時と今では川とか、海とかの場所が違っているのでしょう。

 

 

 

 

 

もう一つの城は刑部城(おさかべじょう)

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刑部城の説明書き、

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阿王山紫城とも呼ばれるこの城は、三方を都田川で囲まれた要害の地に築かれました。戦国時代の永禄11年(1568)、12月、この地の人々がここに城柵を築いて立てこもり、徳川家康の軍と戦い、敗れました。現在、県道の北側に位置する城址には、今でも犬走りや井戸が残っています。姫街道の位置は現在とは異なり、この城の東側をとおって、落合川の渡しへ通じていました。

 

 

この二つの城、戦国時代中期に建てられました。

永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いにて今川義元が戦死した後、土地の人々が砦を築き、地名より堀川城と名付け、また、ほど近い刑部(おさかべ)にも刑部城を築き、徳川家康遠江侵攻に備えた、と伝えられています。正確な築城期は不明なのですが、当時は今川氏の勢力下にあって、永禄11年(1568年)に今川氏真(義元の子)から瀬戸方久に出した徳政令を免じる安堵状の中で、代わりに新城の備蓄を賄うように条件が付いており、この新城が刑部城・堀川城ではと見られているとのことです。

その同じ年、徳川家康は本坂峠を越えて岡崎から湖北(浜名湖の北)へ攻め込み、刑部城を落城させました。今川方で近隣の堀江城主大沢左衛門が家康に抵抗しており、大沢氏と連携した土豪たちが、地元の農民など雑兵約1,700人を集めて堀川城に立て籠もりました。永禄12年(1569年)2月に掛川城を落とした家康は、同年3月27日、再び本坂峠を越えて堀川城を攻め、堀川城内の人々は徳川勢によって一方的に殺戮されました。城兵は約半数が殺害され、半数が捕えられたのですが、家康は捕虜を皆殺しとし、約700人を女子供も含めて都田川の堤で全員首を刎ねたのです。

 

落城に悲話はつきもので、刑部城では落城に際し、城主の美しい姫が敵の手にかかって恥をさらすことを厭い、城のそばの池に身を沈め、そして金襴の蛇に姿を変えたという。その後、村人はこの池を金襴の池と呼び、後世に語り伝えたとのことです。

 

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温厚で慈悲深いイメージがある徳川家康ですが、ここでは捕虜を皆殺しにしています。
それは、まだ少壮のころの家康の実像だったのかもしれません。

で、堀川城跡には、いまだに首塚があり、都田川沿いに供養碑もあります。
悲しいことを語り継ぐ、それが残された人のせめてもの役割。

 

二つの城からそんな思いが伝わってきます。

 

二つの城(終わり)