Tu&Aki’s Couple Life

ゲイが考える『ベトナム』『アジア』『海外旅行』『日本』『仕事・働き方』そして『大事な彼氏』のこと

遠州・一言坂

静岡県に住んでいて、県内(遠州)を巡っているAkiです。
海外旅行に行けないので、マイクロツーリズムを実践中なのです。

 

 

 ※黒の円内がだいたい遠州地方 

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旧国道一号線、日本の大動脈です。


その道沿い、天竜川の東に『一言坂』(ひとことざか)という坂があります。
一言という地名があって、そこにある坂ということで一言坂と言われています。

そこに行ってみました。

 

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ここでは戦国時代に戦いがありました。
一言坂の戦い(ひとことざかのたたかい)です。

 

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戦国時代、元亀3年(1572年)、武田信玄は京を目指します。信玄は軍を3つに分け、山県昌景率いる5,000の兵を三河へ、秋山信友率いる伊那衆を美濃へと先行させます。そして10月10日には、自ら率いる本隊3万を信濃青崩峠から徳川領の遠江へと侵攻させました。

10月13日、信玄は本隊を2隊に分け、5000ほどの1隊を重臣馬場信春に預けて只深城を攻略させて二俣城に進撃させ、残る1万7000の信玄本隊は天方城・一宮城・飯田城・挌和城・向笠城など北遠江の徳川諸城をわずか1日で全て落としました。

一方、浜松にいる徳川家康には8000の兵力しかなく、武田軍の半数以下。しかし信玄の侵攻に対してこのまま動きを見せなければ味方の動揺は必至と見て、10月14日に家康は信玄と戦うべく出陣し、まず、一言坂で武田軍と衝突したのでした。しかし、徳川軍は敗退しました。そのとき家康の家臣である本多忠勝らの活躍もあって家康は無事に浜松城に撤退することができました。このときの本多忠勝の活躍は、信玄をして感嘆させるものであったそうです。

 

 

一言坂の戦いの後、「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八」という本多忠勝の武功を称える狂歌・落書が登場しました。「本多平八」は本多忠勝のことであるり、「唐の頭(からのかしら)」とはヤクの毛で作られた兜のことだそうです。

一言坂の戦いぶりを褒めたたえたものでした。

 

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一言坂での本多忠勝※一言坂の石碑の近くにあった看板の絵

 

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一言坂の石碑から浜松方面を臨む(旧国道一号線)。
たしかに坂になっていることがわかります。

 

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でも、こちらが、本当の一言坂
ぜんぜん雰囲気なくてがっかり。

 

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でも、ちょっと脇に目をやると、池田近道(姫街道)と書かれた道しるべ。

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その近道は、こんな山道。これも坂道です。
たぶん、当時の一言坂はこんな感じだったんでしょうね。

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山の中には古びた階段も。

 

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坂の途中から覗くと、遠くの方で野球をやっている声。


戦国時代の激しい戦いの跡なのですが、楽しそうな声が響き渡っています。

 

徳川と武田の激しい戦いに思いを馳せるには、激しい交通量もあって、ちょっと難しかった。

 

それでもいいかな。前から来てみたかった場所なので。

 

遠州・一言坂(終わり)

※一言(ひとこと)という地名。前から不思議な名前だと思ってましたので由来を調べました。一生に一度、一言だけ願いを聞き届ける観音様(一言観音、智恩斎)があったからだそうです。それは今でも大事にされています。