Tu&Aki’s Couple Life

ゲイが考える『ベトナム』『アジア』『海外旅行』『日本』『仕事・働き方』そして『大事な彼氏』のこと

遠州・横須賀

静岡県に住んでいる Akiです。

 

 

コロナの影響で、大好きな海外旅行に行くことができず、ベトナムにも行けず、
また県外への旅行もはばかれるので、県内の旅を始めてみました。

マイクロツーリズムです。

 

あと、去年から始めた写真。

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初心者用と言われているNikonのD3400。一応、一眼レフ。

 

 

カメラ片手にシャッターチャンスを狙います。
 

あと、自分は歴史や自然が好きなので、そのあたりが旅のテーマです。

 

去年は信州(長野県)に行きました。

 

tuaki.hatenablog.com

 

 

で、今回は静岡県内、遠州』の旅です。

 

図の中、黒で囲ったあたりが遠州です。
右は駿河の国、左は三河(愛知県)ですね。
要するに静岡県西部。

 

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横須賀(よこすか)という町にやってきました
東海道や新幹線からはずれた場所、掛川から南、もうほとんど太平洋岸。
神奈川県の横須賀市と同じ名前ですが、別物。

観光地としては超マイナー。

 

城跡に行ってきました。

 

横須賀城

 横須賀城は、戦国時代、徳川家康が武田家の高天神城を締め付ける付城群の中核として、家来の大須賀康高に命じて築いた城だそうです。その大須賀家2代の後、渡瀬家1代、有馬家1代、その後、江戸時代に入り、再び大須賀家2代となるが除封され、能見(松平)家2代、井上家2代、本多家1代とめまぐるしく藩主が代わり、西尾忠成が2万5千石で入封し、以後7代をもって明治維新を迎えました。

 

横須賀城の特徴は他に類を見ない、天竜川より運ばれた玉石垣を用いた築城法で、天守閣は三層四階であったそうです。

 

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ちょっと見にくいのですが横須賀城の全体像です。

 

建物はまったく残っていません。
曲輪と玉砂利の石垣があるだけです。
※玉砂利は河原から運んできて積み上げたそうです。

 

で、お城を登ってゆきます。

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振り返ると、田園風景。これはお城の南側ですね。

 

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かなたには太平洋。
※松林が邪魔して海は見えませんが。

北側は茶畑。なだらかな丘陵が見えます。

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本丸の天守閣のあとですね。
礎石だけが残っています。
建物はまったくありません。

 

でも、それでいいかな。
その方が自然だし。
歴史の流れ、必然性を感じられる。

 

 

横須賀城址の石碑。
子爵西尾忠方書とあります。

 

西尾 忠方(にしお ただみち、1884年明治17年)5月14日- 1958年(昭和33年)6月17日)。旧横須賀藩第 12代・西尾家当主。貴族院議員。子爵。旧大洲藩主・加藤泰秋の四男として生まれ、1909年12月、子爵・西尾忠篤の養子となる。1909年12月、忠方と改名。養父の死去に伴い、1910年11月29日、子爵を襲爵した。1913年、東京帝国大学法科大学を卒業。馬政調査会委員、軍用保護馬鍛錬中央会副会頭、日本競馬会評議員、十五銀行監査役、蓬莱殖産監査役などを務めた。1918年7月、貴族院子爵議員に選出され、研究会に属して活動し、1947年5月2日の貴族院廃止まで在任した。その他、農林省委員、農商省委員などを務めた。

 

この方、昔の殿様の子孫ですね。

 

 

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玉石の石垣の下にお地蔵さまや仏様たち。
ひっそりと木陰におられました。

 

 

この横須賀ですが、実は昔は港町でした。

 

これが昔の地図。

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お城の近くまで海が来ていて、船でにぎわっていたそうです。

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でも宝永地震で海底が隆起して、港が消滅。
海に面していたお城や城下町は完全に内陸となりました。

宝永地震(ほうえいじしん);江戸時代宝永4年10月4日1707年10月28日)、東海道沖から南海道震源域として発生した巨大地震

 

横須賀は、西尾氏による支配(2万5千石、のちに3万5千石)で発展し、特に第2代藩主西尾忠尚は、老中を歴任して幕政に参与したことから江戸暮らしが長く、そのため江戸文化が横須賀に導入され発展することとなったそうです。でも、宝永地震で横須賀湊が海底隆起のために使い物にならなくなり、貿易中継拠点の役割は終わったのですが、サツマイモ・茶・サトウキビの栽培、遠州灘の漁業などが中心となっていきました。

 

地震が、産業構造を変えたのですね。


お城から東に少し行くと、横須賀の城下町があります。
きれいなお庭がありました。

清水邸庭園です。


・清水邸庭園

清水邸庭園は、清水家の旧邸宅を公園として整備したもの。清水家は、江戸時代に廻船問屋を営んでいた豪商であった。横須賀藩の御用達を務めるなど、興隆を極めたそうです。歴代の当主は代々「清水八十郎」を襲名しており、その繁栄ぶりは「八十様にはおよばないがせめてなりたや殿様に」と俗謡で謳われるほどであった、そうです。

 

右下の駐車場にクルマをとめて、そのまま中に入りました。

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庭へ続く、くぐり戸。
マスク着用ですね。

 

でも、料金はタダ。
これはうれしい。

 

同じところに船着門がありました。
もう港も運河もないのですが、昔の名残りです。

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屋敷の中に入りました。
木々の緑でいっぱい、それと水がとってもきれい。

 

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日本庭園の池。
中にはコイ。

優雅に泳いでいます。

 

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ここは、清水が湧き出ているところ。

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水が本当にきれい。

 

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屋敷の隅に建物。
入口が開いていたのでそっと入ってみました。

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なんとなく生活の匂い。
人が住んでいるエリアのようでした。

なので、そっと、引き返しました。

 

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地元なんですが、初めて来ました。

 

意外といいところ、それが感想。
コロナ禍で海外、県外も行けないのですが、地元のいいところが見られる。

 

新しい発見があって、楽しいし・・・
今はそれで満足です。

 

遠州・横須賀(終わり)

 

PS.コロナ禍は長引きそうです。なのでこの遠州の旅、つづけてゆきます。