Akiです。
信州一人旅の続きです。松本から長野市に来ました。松本からは特急で一時間ほどです。長野駅に着いて、まずは善光寺さんにお参りします。
善男善女。そしてゲイも歩く。
お賽銭を少しあげて、たくさんお祈りして、厄除けの煙を全身に浴びて。
彼氏とずっと一緒にいられますように.........
そのあと、本殿の奥でお戒壇巡りをしました。一回500円。お戒壇巡りとは瑠璃壇床下の真っ暗な回廊を巡り、壁に懸かる「極楽の錠前」に触れることで、錠前の真上におられる秘仏の御本尊様と結縁を果たし、往生の際にお迎えに来ていただけるという約束をいただくものだそうです。本当に真っ暗です。なにも見えません。その中を50mほど、くねくねと歩きながら錠前を探すのです。あ、これね、じゃらじゃらと手に感触が伝わりました。これでAkiも極楽へ行けます。
お参りを済ませて、長野駅近くのホテルにチェックインしました。ロビーに入ると温かくて心地よい。一隅に薪ストーブ。赤々と燃えていて、ほっとしました。
それと、お風呂。
安めのビジネスホテルなんですけど、屋上に露天風呂がありました。
ゆっくりお湯につかって温泉気分。
かっこいいお兄さんこないかな、と思いましたが誰も来ない。
でも、夜空にオリオン座。一年の疲れを癒すには十分ですね。
スマホのバッテリーが切れてしまったので今日は彼氏とのチャットはなし。
早めに寝ました。
翌日は松代(まつしろ)に向かいます。
長野駅から南へバスで40分くらいです(バス代660円)。
バスの終点の松代駅。電車はおろか線路もありません。まつしろのしろの字も取れてしまっていてほぼ廃屋状態。
駅のホーム?に立つと、松代城が見えたので歩いて行ってみます。
歴史旅なのでお城は必ず行かなければなりません。
建物は最近復元されたもののようです。重厚な石垣だけが昔を思い起こさせます。
お堀を渡って本丸に入ります。なにもないのですが、石碑がポツンとありました。
『海津城址』
海津城の築城は戦国時代の1559年(永禄2年)から開始され、翌年には完成しました。
越後と上杉氏と甲斐の武田氏が威をしのぎ合っていた時代です。海津城は武田方の城で上杉への最前線に位置しました。永禄4年(1561年)9月に上杉氏が川中島へ侵攻すると、海津城の城代である武田家臣・春日虎綱(高坂昌信)は海津城で籠城し、信玄本隊の到着を待ち、9月10日には八幡原において両軍の決戦が行われました(第四次川中島の戦い)。 この戦による死者は、上杉軍が3000余、武田軍が4000余と伝えられ、互いに多数の死者を出し、戦いは引き分けとなりました。
ここ松代は日本の歴史上、有名な場所なのです。
戦国時代が終わり、関ヶ原の戦いや大坂の陣で豊臣家が滅亡したあと、松代には、上州(群馬県)・沼田から真田氏が13万石の大名として入ります。真田信之です(高名な真田幸村の兄)。そして真田氏による松代支配は幕末、明治維新まで続きました。
松代の旧家の瓦に真田の六文銭
松代の街並み、景観の保存に熱心のようです。
ですが、人がいない! 善光寺の賑わいが嘘のようです。
高級武士の屋敷
真田新御殿、幕末の元治元年(1864)に9代藩主・真田幸教により、その義母・貞松院の住居として建てられました。そのため「新」御殿と呼ばれています。明治以降は真田家の私邸として利用されていたそうです。
内部も公開されていて、こじんまりとしていて、質実で簡素な作りです。縁側に座って、眺めると信州の山々が借景となっているのがわかります。気分もいいです。
幕末に、お城の外にこんな御殿を建てた意味。よくわかりませんが、もう城郭が防御の役割を果たさないことがわかっていたのではないでしょうか。むしろ、日々の生活や仕事を効率よく行うためにあえて城を出たように思います。
真田新御殿を出ると、恩田木工の像。
恩田木工は江戸時代中期の松代藩家老。松代藩家老として1千石を知行する恩田民清の長男として信濃国松代に生まれる。宝暦2年(1752年)藩主真田幸弘により、傾いた藩政の改革を任されました。木工は「虚言申すまじく候(嘘は言わない)」「申したること再び変替致さず候(一度言ったら替えない)」と自らを律し、藩士だけでなく領民とも直接面談して、反発を受けずに改革を進めるよう配慮しました。 質素倹約を励行し、贈収賄を禁止、不公正な民政の防止など前藩主の時代に弛んだ綱紀の粛正に取り組み、また、宝暦8年(1758年)に藩校「文学館」を開き、文武の鍛錬を奨励しました。逼迫した藩財政自体は改善しませんでしたが、木工の取り組んだ公正な政治姿勢や文武の奨励は、藩士・領民の意識を改革したのでした.......という人です。
また、少し歩くと、象山神社がありました。幕末の志士、佐久間象山を祭る神社です。
(象山神社)
(佐久間象山) 奇異な顔、どうみても悪人顔。
神社は佐久間象山の生誕地に隣接して建てられてました。
天保4年(1833年)11月に江戸に出て詩文や朱子学(儒学)を学び、天保10年(1839年)には江戸の神田お玉ヶ池で私塾「象山書院」を開き、儒学を教えました。
天保13年(1842年)、松代藩主真田幸貫が老中兼海防掛に任ぜられると象山は顧問に抜擢され、アヘン戦争 (1840 - 42) での清とイギリスとの混沌した海外情勢を研究することとなり、『海防八策』を上書、さらこれ以降オランダ語をはじめ、オランダの自然科学書、医書、兵書などの精通に努めました。象山の教育に対する態度は近代的で、自分が書物から学んだことは、公開を基本とした。象山自身の門弟から「免許皆伝」を求められた時も、その必要がないことを説明した上で断っている。象山は大砲の鋳造に成功し西洋砲術家としての名声を轟かし、嘉永4年(1851年)、木挽町に「五月塾」を開き、砲術・兵学を教えました。ここに勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬ら後の俊才が続々と入門しています。嘉永6年(1853年)にペリーが浦賀に来航した時も、象山は松代藩の軍議役として浦賀の地を訪れた。この報告は江戸幕府老中阿部正弘に『急務十条』として奏上された。嘉永7年(1854年)、門弟の吉田松陰が再び来航したペリーの艦隊で密航を企て失敗すると、松陰から相談をもちかけられた象山もこの事件に連座し、伝馬町牢屋敷に入獄する羽目となり、更にその後は文久2年(1862年)まで、松代での蟄居を余儀なくされる。 元治元年(1864年)、象山は一橋慶喜に招かれて上洛し、慶喜に公武合体論と開国論を説きました。しかし当時の京都は尊皇攘夷派の志士の拠点となっており、「西洋かぶれ」という印象を持たれていた象山は、7月11日、京都三条木屋町で暗殺されたのです。
享年54歳......だそうです。
象山は自信過剰なところがあり、それ故に敵が多かったようです。それにあの顔。とっつきにくそうです。でも、当時の日本において象山は紛れもない洋学の第一人者だったとのこと。数多くの門弟がいて、彼の思想が明治維新の原動力になったのは間違いないようです。
しかし、象山は元々儒学者です。
日本では儒教は学問(儒学)として広く教えられ、宗教色はありませんでした。儒学の一派に陽明学があります。時代に適応した実践倫理を説き、心即理・知行合一・致良知の説(要するに心のままに行動すべき)を主要な思想としたものです。象山は儒学から陽明学を信奉し、その思想に基づいて西洋の科学を学んでいったのだと思います。西洋の合理主義からすれば、尊王攘夷などはありえるわけでもなく、開国論しかなかったのでしょう。その為に攘夷派により暗殺された。やはり象山は時代の先駆者であり、江戸期の思想の結実だったように思います。また、儒教ではなく、儒学がさかんに学ばれた日本。その精神は、江戸から明治、今に至るまで続いているように思えます。
恩田木工は、別に大きな業績を上げたわけでもなく、嘘は言わない、わいろは受け取らない、いつも公正公平な政治をやる、というだけで民から慕われ、銅像にまでなりました。また、佐久間象山は、性格が悪かったので、あまりいい評価はもらえなかったようですがそれでも神社に祭ってもらえています。
それは、彼らの思想や考え方が今でも受け入れられているからだと思います。そして、それはもうほぼ日本人の骨髄に染み付いたものなのではないかとAkiは思っています。
儒学から陽明学、そして明治維新、大正、昭和の戦争。今の私たちが反省したり、参考にしたりしなけばならないものがそこにあるような気がしています。
信州・松代(終わり)