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※黒の円内が遠州地方
今回は静岡県西部の中心都市、浜松です。
これは浜松城ですね。
本丸にある天守閣。
写真映りはいいのですが、これは復興天守でコンクリート製(昭和33年建築)。
石垣は当時のまま。野面積みですね。
戦国時代の野趣を感じます。
浜松城は、元亀元年(1570年)に徳川家康が岡崎より遠江国曳馬へ移ったことに始まりました。それ以後、家康は29歳から45歳までの17年の間、ここに居住しました。
元亀3年(1573年)、甲斐の武田信玄がこの城を攻める素振りを見せながらこれを無視するような行軍をして家康を挑発。挑発された家康は浜松城から打って出たのですが、武田軍の反撃に遭って敗北を喫しました(三方ヶ原の戦い)。 三方ヶ原の戦いでは徳川軍の一方的な敗北の中、家康も討ち死に寸前まで追い詰められ、夏目吉信や鈴木久三郎を身代わりにして、僅かな供回りのみで浜松城へ逃げ帰りました。浜松城へ到着した家康は、全ての城門を開いて篝火を焚き、いわゆる空城の計を行いました。そして湯漬けを食べてそのままいびきを掻いて眠り込んだそうです。この心の余裕を取り戻した家康の姿を見て将兵は皆安堵。浜松城まで追撃してきた武田方の山県昌景隊は、空城の計によって警戒心を煽られ城内に突入することを躊躇し、そのまま引き上げた。
そんなエピソードがある城です。
その三方ヶ原の戦いの痕跡ですが、浜松にいくつかあります。その一つが『犀が崖』です。「三方ヶ原の戦い」で武田信玄に大敗した徳川家康は命からがら浜松城に逃げ込みました。その夜、家康はどうにか一矢を報いようと犀ヶ崖近くで野営する武田軍を急襲しました。地理に詳しくない武田軍は混乱し、崖に転落して多くの死者を出したということです。
その崖が今でもあります。
町の中にあるのですが、非常に急峻な崖になっています。
落ちたら、怪我しますね。
その周りにはいくつか石碑が建てられています。
一つは、夏目次郎左衛門吉信の碑
三方ヶ原の戦いの折、浜松城の留守居役を務める夏目次郎左衛門吉信は、二十余騎を率いて城を出て、三方ヶ原の戦いで敗れ、死を覚悟した家康を諫めて城へと逃がし、影武者となって討ち死にしました。これを称え、顕彰する碑です。
碑の裏面に書かれた碑文です。
夏目次郎左衛門吉信旌忠碑 公爵 徳川家達題
元亀三年冬徳川家康武田信玄ト三方原ニ戦ヒテ大敗ス時ニ夏目次郎左衛門吉信浜松城ニ留守セシガ急ヲ聞き与力二十余騎ヲ率い馳せ到レバ家康既ニ死ヲ決セリ因リテ大イニ之ヲ諌メ馬首ヲ浜松城ニ向ハシメ畔柳助九郎武重ニ目シテ日ク汝速カニ主君ヲ護リ去レト乃チ槍ヲ揮ヒテ馬臀ヲ打ツ馬驚キ奔ル家康辛ウシテ城ニ入ル是ニ於テ吉信自ラ家康ト称シ敵陣ニ突進シ奮戦シテ主従共ニ死ス実ニ十二月二十二日申ノ下刻ナリ時ニ年五十有五従者其ノ屍ヲ収メテ城ニ還レバ家康深ク其ノ忠死ヲ悼ミ郷里三河国幡豆郡豊坂村六ツ栗明善寺ニ於テ厚ク葬ラシム
昭和十年六月建之
昭和10年に、徳川家16代目の徳川家達の題字によってこの碑が建てられていることがわかります。
また、もう一つの石碑。
三方ヶ原の戦いのあと、撤退する徳川軍の中で、最後尾となる殿(しんがり)を買って出て、討死したのが本多肥後守忠真(本多忠真)です。
やはりその功を称え、 顕彰した碑です。
こちらは、本多忠真の末裔となる第17代・本多子爵が明治24年に建立しました。
石碑には、徳川家16代・徳川家達(いえさと)によって書かれた題字と、本多家が代々、松平家と徳川家に仕えたこと、本多忠真が戦で数々の功績を残したといわれることが刻まれています。
2つの石碑。それは明治と昭和初期に建てらました。
題字はいずれも徳川16代の徳川家達。
もうとっくに江戸時代も終わって、遠い過去の話になっていたはずですが、なぜこの時期に石碑が建てられたのか、また、何故、あえて徳川16代が題字を書いているのか、疑問がわいてきます。
江戸期への郷愁が、まだまだ残っていたのかもしれません。あるいは江戸が薄れてゆく、なくなりつつあることに危機感を抱いたのかもしれません。
犀が崖・・・
遠州・浜松(終わり)