Tu&Aki’s Couple Life

ゲイが考える『ベトナム』『アジア』『海外旅行』『日本』『仕事・働き方』そして『大事な彼氏』のこと

遠州・二俣

 静岡県に住んでいて、県内(遠州)を旅行するAkiです。
マイクロツーリズムを実践中なのです。

それと、カメラ片手の撮影旅行。

 

 ※黒の円内が遠州地方

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今回は、浜松北部の二俣(ふたまた)です。
天竜川の上流、天竜川と二俣川、西阿多古川が合流する地点です。

あと、元亀3年(1572年)10月16日から12月19日にかけて武田信玄軍と徳川家康軍による二俣城攻防戦が行われた場所でもあります。

 

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天竜川にちょっと素敵な橋が架かっています。

 

これは、国道362号線の鹿島橋。

トラス橋。ゲルバートラス 橋ですね。

 

現存する戦前最大スパンの上曲弦ゲルバートラス橋。
建設が昭和12年(1937年)
延長 216.6m、 幅員6.0m

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戦前に作られた橋ですが、今でも十分使われてます。

 

あと、もう一つ。

天竜浜名湖鉄道天竜川橋梁。

こちらも作られたのは戦前。

昭和15年(1940年)建築、平行3連トラス、橋長403m

 

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二つのトラス橋が見られる、めずらしい場所です。
最近、そんなものにとっても興味があるのです。

tuaki.hatenablog.com

 

 

 

 

で、橋のあとは、徳川家康武田信玄・勝頼の攻防が行われた二俣城跡へ行ってきました。

 

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城跡なので建物は何もありません。

てくてく歩いて登ります。

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意外と楽に本丸に着きました。

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これが天守閣のあと、石垣だけが残っています。

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建物は残っていないのですが、ところどころに残る石垣。
趣があっていいですね。歴史をずしりと感じさせてくれる。

 

やはり、本丸からの景色はいい。一望の下ですね。

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あと、天竜川がすぐ下に見えます。
外敵を防ぐ外堀の役割を十分果たしていたのです。

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お城を下ってゆくと、もみじ。
青々としています。

 

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光が差し込んできて、もみじの影。

 

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それと、蝶。

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お城の次はお寺に来ました。

清瀧寺(せいりゅうじ)。

徳川家康が、織田信長の家臣だったころ、織田家の敵方(武田)との内通が疑われ、自刃した家康の嫡男・松平信康の廟所として、徳川家康によって建立されたお寺です。

 

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ここも、青々としたもみじ。

 

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山門をくぐって、ちょっと歩くと石段。

 

それを上ってゆくと、松平信康の廟所・墓所

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入り口は固く閉ざされています。

 

由来が細かく書かれています。

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閉ざされた門の隙間から、覗いてみました。
でも、向こうには、さらに墓所の門。
こちらも閉ざされていますが、三つ葉葵のご紋。
徳川家ですね。

 

その先はわかりません。公開はされていないのです。

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殉死した家来のお墓。

 

あたり一帯は古い墓所
静寂そのものです。でも暑い。

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お寺の参拝はこれで終わり。 

 

 

 

 

あと、ここ二俣には、戦前、陸軍中野学校の二俣分校がありました。今は、もうその痕跡はまったくありません。跡地に碑が立っているだけです。

これは旧陸軍のスパイ養成学校なのです。

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学校の境界を示す石柱。

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日本陸軍中野学校

ゲリラ戦要員の短期育成を目的とした大日本帝国陸軍教育機関(東京都中野区にあった)で、ゲリラ戦術、破壊工作の訓練を目的に1938年(昭和13年)3月に設置。ここでは日本軍に共通認識されていた戦陣訓の「生きて虜囚の辱めを受けず」という通常の教えとは正反対の「たとえ国賊の汚名を着ても どんな生き恥をさらしてでも生き延びよ」「できる限り生きて任務を遂行するのが中野魂である」と教えられたそうです。1944年(昭和19年)8月、静岡県二俣町(現在の静岡県浜松市天竜区)に遊撃戦(ゲリラ戦)の要員養成を主たる目的として「陸軍中野学校二俣分校」が設立。

 

二俣分校の卒業生に小野田寛郎さんがおられます。
※情報将校として太平洋戦争に従軍し遊撃戦(ゲリラ戦)を展開、第二次世界大戦終結から29年を経て、フィリピン・ルバング島から日本へ帰還

 

いろいろな歴史が渦巻いている天竜川の二俣
おもしろい場所でした。

 

来てよかった。

 

 

遠州・二俣(終わり)