Tu&Aki’s Couple Life

ゲイが考える『ベトナム』『アジア』『海外旅行』『日本』『仕事・働き方』そして『大事な彼氏』のこと

中国のこと(2)

日本人ゲイのAkiです。

中国について考えています。

 

tuaki.hatenablog.com

 

 今回は儒教についてです。

 

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儒教。むつかしいのですが中国を考える上で避けては通れません。儒教孔子を祖とする思考、信仰、哲学であり、紀元前の中国に始まり、2000年以上にわたって強い影響力を持っています。 儒教五常(仁、義、礼、智、信)という徳性を鍛えることにより五倫(父子、君臣、夫婦、長幼、朋友)の関係を大事にすることを教えています。 そのうち、まず『仁』は人を思い遣る事。創始者孔子は仁を最高の徳目としていました。『義』は利欲に囚われず、すべきことをすること。『礼』はもともとは宗教儀礼でのタブーや伝統的な習慣、制度を意味していましたが、のちに人間の上下関係で守るべきことを意味するようになりました。『智』は、学問に励むこと、要するに儒学を学ぶこと。『信』は、言葉を違えないこと、真実を告げること、約束を守ること、誠実であること。いずれも私たち日本人にしたら、そんなに違和感はないし、人の道として教えられたら素直に受け入れるでしょう。特に『仁』でいうところの人をおもいやる、などは我々、日本人が日常、心がけるべきことでしょう。

しかし、儒教社会にはすさまじいものがあります。例えば、儒教では親を敬うことが奨励され、そして、親に連なる同族をも重んじるため、一族の誰かが殺されれば報復をするのが当然とされていました。裏を返すと報復されないためには、相手の一族を皆殺しにする必要があります。そのため、死刑をする際には「三族皆殺し」という、父方の一族、母方の一族、妻の一族すべてを殺してしまうケースがあったそうです。さらに、儒教では上下の秩序を重んじています。すると上の者には媚び、下の者には傲慢に接するという差別意識が生まれやすくなります。その結果、自己中心的で傲岸不遜、嘘をつくのも当たり前で、道徳心も倫理観も失うことになってしまいます。厳しい上下の序列は、もちろん現在でもあり、職場での人間関係も同様で、上司へのつけ届けなど派閥内で上昇するための気配りは日本企業の比ではないと言います。また血縁、地縁、さらに学縁といった単位で集団の序列が束ねられ、縁故者に便宜を図ることを美徳とする風潮があるとされています。そして血縁の序列に基づく繁栄の継承という儒教の教えに従って、創業者一族による所有と父から子への権力継承が行われるのです。北朝鮮では社会主義国でありながら3代世襲が続いているのも、うなずけます。

また、科挙という制度が儒教とともに始められました。科挙は高級官僚を国内から選抜するペーパーテストのことです。これは6世紀から20世紀まで続けられました。科挙では、身分に関係なく誰にでも「公平」に官僚への道がひらかれ、かつペーパーテストによって「公正」に評価・登用される画期的なものでした。しかし、1000年以上続いた科挙のテストは、その出題が儒教の古典に限られ、儒教さえ勉強すればよいわけで、そうした形で科挙に合格した人間が試験官になり、自分と同じような者を官僚に登用することとなり、その結果、為政者(政治家)のすべてが儒教の影響下に延々と置かれることとなったのです。

孔子に、ある村長が判断を求めてきたという。「子供が自分の親が羊を盗んだ、と告げてきた。どうすべきか」。孔子は「その子供は親の罪をかばうべきである」と答えた。儒教には「公」の意識はなく、まず守るべきは家族なのである、だそうです。

儒教の影響には、日本人が想像もつかないほどおそろしいものがあります。『公』や『法』は『(一族としての)私』の前ではまったく無力なのです。これは日本人が決して受け入れられないものだと思います。

戦後に建国された中華人民共和国では「儒教は革命に対する反動である」として弾圧され、特に文化大革命期には批林批孔運動として徹底弾圧されました。多くの学者は海外に逃れ、儒教思想社会主義共和制の根幹を成すマルクス主義とは相容れない存在と捉えられていたためとされています。これは正しい認識だったと思います。しかし、実態は単なる権力闘争であったようです。それで、21世紀に入ると儒教は弾圧の対象から保護の対象となり再評価されるようになりました。 孔子を国際的に著名な思想家、教育者と評価し、孔子学院と名付けた公的機関を現在、世界中に展開しています(日本でも私立大学内に10か所以上あるそうです)。一旦は否定した儒教中国共産党は認め、これを統治の道具として利用する方向に転換しました。中国では儒教は弾圧され、また復活します、その過程を今回も同じようにだどっているわけです。孔子が生まれたのは紀元前552年、以降2000年以上に渡って連綿と儒教は中国大陸に存在し続けました。一時、その弊害に気づき否定しても、何度も復活してきました。これは、この思想が中国という土地を支配する上で、もっとも都合がよく、効果的であったからでしょう。為政者にとって中国という土地を維持し、拡大して行くうえで、儒教は欠くことのできない思想だということなのです。そして、それは中国人自身が、中国という土地に住み続けるためには必要なもので、その骨髄にしみ込ませたどうしようもない宿痾(しゅくあ)なのかもしれません。

中国が繁栄するとき、当然、この儒教思想にのっとって行動することでしょう。それは儒教に染まっていない周辺国にとっては、たまらないものです。この儒教という魔物を深く学び、それを逆手に取った対応、行動が今後必要になるのではないでしょうか。

 

中国のこと(2) つづく