Tu&Aki’s Couple Life

ゲイが考える『ベトナム』『アジア』『海外旅行』『日本』『仕事・働き方』そして『大事な彼氏』のこと

遠州・見附

静岡県に住んでいて、県内(遠州)を巡っているAkiです。

マイクロツーリズムを実践中なのです。

 

※黒の円内がだいたい遠州地方です。

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今回は、その遠州の中ほど、『見附』(みつけ)です。

磐田市になります。

 

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ここでは、旧見附学校を見てきました。

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去年末、信州の松本を旅行して『旧開智学校』を見ましたが、ほぼ同じ時期に作られた明治期の小学校です。

 

tuaki.hatenablog.com

 

これが、旧見附学校の外観です。

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3階建物の上に2層の望楼がのっています。

なので一応、5階建ての建物です。

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中に入ります。

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2階は教室、明治時代の子供たち、人形ですね。
3階は校長室など。

さらに上に登ってゆくと、望楼です。

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ここにはかつては太鼓が置かれ、時を告げるために鳴らされていたそうです。

 

その望楼の窓からは見附の町がよく見えます。
風情のある火の見櫓。

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この旧見附学校の建物の隣には、古めかしい日本風のお屋敷。
表札には『大久保』と書かれています。

これは個人のお宅ですね。

 

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こちらは遠江国の総社であった淡海國玉神社の神主を代々務め、磐田文庫や旧見付学校の建設、また、磐田の茶業発展に大きく貢献した『大久保忠尚』の家なのです。

 

明治期の最初のころ、新しい時代に向けて、日本中で、さまざまな人が出て、さまざまな貢献をしていますね。

 

旧見附学校、堂々としていて立派な建物です。
建築は明治8年ですから、江戸時代が終わってわずか8年後のことです。


新しい日本建設に向けて、すばらしい小学校を作った先人たち。
本当に慧眼で、立派だと思いました。

 

 

 


旧見附学校から少し北へ行くと、 旧赤松家記念館があります。

ここは、近代日本の造船技術の先駆者で、明治期に磐田原台地に茶園を開拓した海軍中将男爵『赤松則良』の邸宅跡です。お屋敷そのものはないのですが、明治20年代に建てられた門・塀・土蔵があります。門などは本当に堂々としたものです。

 

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赤松家の門。

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赤レンガが印象的。

明治の雰囲気がよく出てますね。

 

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こちらは土蔵。でもしっかりとしたものです。

 

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再び、門のところ、やはり赤レンガと和風の屋根。

 

やっぱり、明治の雰囲気です。

 

さて、この屋敷の主人ですが、赤松則良(あかまつ のりよし)です。
天保12年(1841)生まれ~大正年(1920)没、 海軍軍人(中将)・造船技術者。
幕末の江戸に生まれ、13歳のとき、江川坦庵の下で砲術と兵学を学び、安政4年海軍伝習生に選ばれ、長崎で2年間まなびます(幕臣です)。万延元年咸臨丸にのりくみ、勝海舟とともに渡米。文久2年オランダに留学して造船学を学ぶ(まだ江戸幕府の時代です)。そして維新後の明治9年横須賀造船所長、明治20年海軍中将、明治22年佐世保鎮守府司令長官、明治24年横須賀鎮守府司令長官などを歴任した。明治30年貴族院議員。・・・・という方です。

 

元々は徳川家の家臣(幕臣)で、明治維新後、徳川家が静岡に移封となった際に従って、この見附に来たようです。その後、明治政府に仕え、男爵にまでなっています。造船が専門だったのですが、磐田原(いわたばら)の茶園開墾などもやったりしています。

 

この明治期の日本人たち、
江戸期の武士のにおいをつよく感じます。それは、私利私欲ではなく、純粋に祖国日本の為、人々の為に、はたらこうという意識から出てくるもの。

 

ある種のすがすがしさ、です。

 

 遠州・見附で、そんなにおいを感じました。

 

遠州・見附(終わり)