サラリーマンを辞めて、フリーになるAkiです。
PRESIDENT 2017年5月1日号の記事・・・
"バカほど「それ、意味ありますか」と問う若者の思考レベルが"劣化"している"
を読みました。
著者の宮台真司さん(首都大学東京 教授)。
この方は「1986年分水嶺説」を唱えておられ、「86年以前生まれ」と、「86年以降生まれ」には、実は大きな違いがある。86年生まれ以降の若い世代は絶望的に「劣化」したと主張されています。
・・・少し、引用してみます。
「86年以前世代」は、阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件、援助交際ブームなどを経験しており、「社会は5〜7年ごとにガラリと変わる」という感覚を持つ。他方「86年以降世代」は「社会はこのままずっと続く」という感覚を持つ。彼らが思春期を迎える97年頃から、日本社会は「平成不況」が深刻化、以降の変化が乏しくなった。だから「どうせ何も変わらないのであれば、周りに合わせるしかない」という構えになりやすい。
そして、80年代に「詰め込み教育」が批判され、90年代以降は「自分で考える力」の養成が目指された。だが皮肉にも以前のほうが「自分で考える力」があった。
学問の基本は武道や演奏と同じだ。基本動作を反復訓練して「自動機械」のように動けるようにする。そこに意識を使わなくなる分、意識に新しい役割が与えられる。「自動機械」化した自分から幽体離脱し、自分に寄り添って観察する。これを「意識の抽象度の上昇」という。昨今の若者は「何の意味があるのか」と合理性を問い、合理性がないことをしない。確かに企業内には不合理にみえることが多数ある。だが企業人の初心者が逐一合理性の有無を問うても無駄。合理性を問う前に、先行世代のマナーやルールを自動機械のように振る舞えるくらい身につけたほうがいい。思考する価値のある問題に注力するのはそれからだ。自分はできもしないのにマナーやルールの合理性を問う者は、思考レベルが低い。
抽象度を上げた意識から見れば、「合理的なものが非合理で、非合理なものが合理的だ」という逆説はザラだ。若者が合理性を問うてきたら、そうした世の摂理を開陳すればいい。先行世代自身も自分を見直す機会になる。合理性は高い抽象度で判断するべきものだ。・・・引用終わり
自分はもちろん、「86年以前生まれ」なのですが、この話、わかるような気がします。
会社勤めをしていたころ、後輩に言われたことがあります。
「私は、自分で納得できないことはやらない主義ですので、これはできません」
仕事をやらせる、覚えさせるために、納得できる理屈が必ず必要だということです。
一見、しっかりしているな、と思うのですが、よくよく考えると、あほらしい。
その若手の薄っぺらな知識の範疇でしか、価値判断できない。
そんなあほな、と思ったものです。
そう思い込むことで、いろいろな考えが幼稚になり、しょうもない技術開発や研究が際限なく繰り返される、空恐ろしいような思いです。
でも、全部の若者がそうというわけでなく、しっかりした知識と考え方を持っている方もおられます。そんな方に期待します。
若者の劣化(終わり)