東南アジアが大好きなAkiです。
ミャンマーについて考えてみようと思います。
以前も、少し書いたのですが、2月1日のクーデター以降、非常に厳しい状況になりつつあるようです。
東南アジアのインドシナ半島西部に位置する共和制国家。独立した1948年から1989年までの国名はビルマ連邦、通称ビルマ。東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟国
人口は 5,142万人(2014年)、首都はネピドー(2006年まではヤンゴン、旧名称はラングーン)。
多民族国家で、人口の6割がビルマ族であるものの、ほかにカレン族、カチン族、カヤー族、ラカイン族、チン族、モン族、シャン族、北東部に中国系のコーカン族などの少数民族がいる。
歴史的な経緯で言えば、やはりイギリスとの関係が深い。
ミャンマーの現代史;
19世紀、ビルマ(ミャンマー)は、隣国のインドを支配するイギリスに対してベンガル地方の割譲を要求し、イギリス側が拒否すると武力に訴えて第一次英緬戦争(1824年-1826年)が勃発。結果、ビルマが敗れ、1826年2月24日にヤンダボ条約が締結され、アッサム、マニプール、アラカン、テナセリムをイギリスに割譲する羽目になりました。さらに、1885年11月の第三次英緬戦争でビルマの王朝は滅亡し、1886年6月、英清ビルマ条約でイギリスは清にビルマの宗主権を認めさせると、ビルマはイギリス領インドに併合されて、その1州となりました。
その後、独立の動きが活発となり、1942年、アウンサンがビルマ独立義勇軍を率い、日本軍と共に戦いイギリス軍を駆逐し、1943年に日本の後押しでバー・モウを元首とするビルマ国が建国された。しかし1944年の独立一周年記念の席上でアウンサンは「ビルマの独立はまやかしだ」と発言。 1944年8月に秘密会議で反ファシスト人民自由連盟(AFPFL、1945年-1962年)が結成された。1945年3月27日、アウンサンが指揮するビルマ国民軍は日本及びその指導下にあるビルマ国政府に対してクーデターを起こし、イギリス側に寝返った。
1947年7月19日にアウンサンが暗殺された後、AFPFLをウー・ヌが継いだ。1948年にイギリス連邦を離脱してビルマ連邦として独立。初代首相には、ウー・ヌが就任した。独立直後からカレン人が独立闘争を行うなど、政権は当初から不安定な状態にあった。
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ざっと、近代史を見て、ややこしい地勢だなという印象です。北方の清(中国)の影響、そして隣国のインドの状況(イギリスの台頭)に振り回され、60年余り、イギリスの統治を受けることになりました。
この時代、ベトナム、ラオス、カンボジアはフランスの植民地で、イギリスはインド、ベンガル、ビルマまでを統治したのです。一方、中間にあるタイは両国統治の緩衝地帯としてかろうじて独立を維持することができたということですね。
で、最近のミャンマーの動き;
2020年11月8日に行われた総選挙で、アウンサン・スー・チー率いる与党NLDが選挙区の83%で勝利しました。でも、この選挙には不正があったと、軍が主張し、それが受け入れられなかったためにクーデーターをおこしたのです。その後、これに反発する市民のデモはエスカレートし、また、軍も弾圧を強化してゆきました。もうすでに市民の犠牲者は1,000人を超えているそうです。また、他民族国家であるミャンマーを反映して、武装したカチン族やカレン族が蜂起して、市民側で戦っているそうです。
軍が起こしたクーデター。
まともに考えれば、なんの正義もない、民主化とは逆行する愚行ということなのですが、周辺国の思惑、国内の勢力の思惑が入り乱れて、複雑化の様相です。日本や英米など国際社会が強権的なミャンマー国軍を非難しても、状況は変わりません。中国とロシアはこれを「内政問題」として扱い、「クーデター」とはみなしていない。中国とロシアは国軍寄りなのだそうです。
ミャンマー建国の父と言われたアウンサン将軍の娘、アウンサンスー・チー。
今まで、与党NLDを率いて、欧米流の民主化を進めてきたのですが、これが限界だった、ということかもしれません。
ミャンマーを考える(終わり)