Tu&Aki’s Couple Life

ゲイが考える『ベトナム』『アジア』『海外旅行』『日本』『仕事・働き方』そして『大事な彼氏』のこと

ベトナムと日本

ベトナム好きのAkiです。

 

以前、ベトナム中部の古都、フエを旅行した際、川沿いに歩いていて大きな石像と石碑を見つけました。

f:id:TuAki:20200709102638j:plain

f:id:TuAki:20200702152619j:plain

 

f:id:TuAki:20200709102705j:plain

 

『日越外交関係樹立40年にあたり、日本で東遊運動を支援した浅羽佐喜太郎墓所に記念碑を建てたファン・ボイ・チャウの記録を残すためこの石碑を建てました』と書いてあります。

 

ベトナム人の相方に聞いてみると、このファン・ボイ・チャウという人を知っていました。ベトナムでは有名な独立の英雄なんですね。

 

ファン・ボイ・チャウ( Phan Bội Châu 、1867年12月26日 - 1940年10月29日)はベトナム民族主義運動、独立運動の指導者。

 

ネットからちょっと引用します・・・ 

ベトナムは19世紀後半、フランスの植民地(フランス領インドシナ)となった。ファン・ボイ・チャウは10代の頃から反仏独立運動に参加。1904年、阮朝皇族のクォン・デ(Cường Để、彊㭽)を盟主として「維新会」を結成し、武器援助を求めるべく1905年に来日。 亡命中の梁啓超を通じて知り合った犬養毅らから、人材育成の必要を説かれたことから、ベトナムの青年を大日本帝国に留学させる東遊運動(ドンズー運動)を興した。医師の浅羽佐喜太郎に支援されて活動したが、危機感を抱いたフランスが日仏協約で日本政府に働き掛け、1909年に国外退去にさせられる。 一方、浅羽は病弱であり、当時不治の病だった結核を長年患っていた。そしてファンと別れてから1年半後の1910年9月25日、東浅羽村の自宅で死去。43歳没。 

浅羽の訃報を知ったファンは、1917年5月に偽名を使って大日本帝国密入国した。1918年に3度目の訪日をし、東浅羽村の村長と村民による金銭的援助もあり、浅羽佐喜太郎への「報恩の記念碑」を現在の静岡県袋井市に存する常林寺に建立した。碑は高さ2.7メートル、幅0.87メートルの大掛かりな石碑で文言が漢文で刻まれている。

f:id:TuAki:20200712185522j:plain

 

 

現代仮名遣いに置き換えた文章。


 我らは国難のため扶桑(日本)に亡命した。公は我らの志を憐れんで無償で援助して下さった。思うに古今に類なき義侠のお方である。ああ今や公はいない。蒼茫たる天を仰ぎ海を見つめて、我らの気持ちを、どの様に、誰に、訴えたらいいのか。此処にその情を石に刻む。
 豪空タリ古今、義ハ中外ヲ蓋ウ。公ハ施スコト天ノ如ク、我ハ受クルコト海ノ如シ。我ガ志イマダ成ラズ、公ハ我ヲ待タズ。悠々タル哉公ノ心ハ、ソレ億万年。
— 大正七年三月、越南光復会同人

 

1925年に上海でフランスの官憲によって逮捕されハノイ終身刑を宣告されるが、ベトナム国内の世論の反発を受けて恩赦された後、フエに軟禁されたまま没した。  

 

ファン・ボイ・チャウが浅羽を偲んで建てた石碑ですが、調べてみると自分が住んでいる場所からほんの20kmくらいのところにあることがわかりました。

 

なんとはなしに縁を感じるので実際に行ってみました。

 

静岡県袋井市にある常林寺です。

ほんとうに小さなお寺です。

f:id:TuAki:20200712160655j:plain

f:id:TuAki:20200712160617j:plain

お寺に入ると真新しい石碑(左側)。
見ると 、天皇・皇后両陛下のご訪問記念の碑でした。
天皇皇后両陛下行幸啓記念碑』、2018年11月27日です。
陛下は2017年の3月にベトナムを訪問されており、その翌年にここを訪れています。

 

f:id:TuAki:20200712192820j:plain

 

 

それで、肝心の石碑がこれです。かなり大きなものです。

 

f:id:TuAki:20200712160218j:plain

 

 

f:id:TuAki:20200712192731j:plain

 

 

f:id:TuAki:20200712160456j:plain

 

確かに、ベトナム独立の志士、ファン・ボイ・チャウの碑文です。

日本の自宅からわずか20km

 

まさしく灯台下暗し、というものです。

 

でも、ベトナムと日本
これは、とってもうれしくて、いい話かな。

 

ベトナムと日本(終わり)