日本人のAkiです。
日本と日本人についてずっと考えています。
前回は、幕末~明治維新、について書きました。
長い間続いた江戸幕府を倒し、天皇を中心とした新しい政治。
それは、儒学の一派である朱子学の素養の上に描かれた、陽明学の思想の結実であったということです。
次に、その新しい明治、そして大正、昭和の時代についてです。
明治のコンセプトは『尊王・開国』です。最終的には、尊王攘夷なのですが、国を富ませなければ攘夷を行うことはできません。したがって開国し、『富国強兵』『文明開化』『殖産興業』などをスローガンに欧化路線をひた走ります。
しかし、その欧化の目的は、あくまでも攘夷(夷を打ち払う)なのです。
そして、明治時代、日本は日清戦争と日露戦争を戦いました。
いずれも勝利しましたが、薄氷の勝利。
明治政府は尊王・開国を方針としながらも、その根底には攘夷思想が受け継がれていました。ともすれば、感情的になりがちなその思想を抑え、現実的に対処できた戦争だったと思います。だから勝利することができ、輝ける明治となったのだと思います。
それは、明治維新のときの指導者(朱子学の素養がベースにある)たちが、その戦争(日清、日露)を指導したからだと自分は思います。
『尊王攘夷』という現実無視の思想を抑え、倒幕という統一目標の下、維新をやり遂げた実績と自信、それと外国からの圧力にどう対応すべきか、という怖れ。
それが、明治維新という修羅場を乗り越えてきた指導者たちの現実認識だったと思います。思想的に言うのであれば、彼らは江戸末期に朱子学を学び、陽明学にも触れ、その影響を受けて行動し、倒幕を成し遂げました。しかし、その体験から学んだ現実感覚は、陽明学の行動の危うさを深く認識していたのだと思います。なので、その現実感覚というかバランス感覚があったがゆえに、二つの大きな戦争を遂行することができた、ということです。
そしてその感覚は、やはり江戸期の儒学、朱子学の素養によるものだったと自分は考えます。
しかし、明治に入ると、その教育内容は、江戸時代とまったく異なるものとなりました。 読書・習字・算術・地理・歴史・修身などです。江戸時代の儒学はわずかに修身という科目の中にあったかと思うのですが、学ぶ内容は大きく変わりました。朱子学は古き悪しきものということになっていったのだと思います。なので、次の世代を担う明治の子供たち、江戸期とはまったく違った教育を受けたわけです。
そして、その子供たちが、大正~昭和の時代を主導してゆくことになります。
その子供の一人に安岡正篤(やすおか まさひろ)という人がいます。1898年(明治31年)生まれ。主に昭和の陽明学者、哲学者、思想家です。
東京帝国大学卒業後に文部省に入省するも半年で辞め、皇居内に設立されていた社会教育研究所で学監兼教授となり、教育部長を兼任。同年「東洋思想研究所」を設立、当時の大正デモクラシーに対して伝統的日本主義を主張。『日本精神の研究』『天子論及官吏論』などの著作を発表し、一部華族や軍人などに心酔者を出しました。
1927年(昭和2年)に「金鶏学院」を設立。金鶏学院は軍部や官界、財界に支持者を広げて行き、1932年(昭和7年)には「日本主義に基づいた国政改革を目指す」として、近衛文麿(元首相)らとともに「国維会」を設立しました。金鶏学院などを通じた安岡の教化活動は、「二・二六事件の首謀者西田税らに影響を与えた一人」とも言われる。また、安岡は、北一輝や大川周明の猶存社のメンバーでもあった。
二・二六事件;1936年(昭和11年)2月26日から2月29日にかけて皇道派の影響を受けた陸軍青年将校らが1483名の下士官兵を率いて起こした日本のクーデター未遂事件
この安岡の経歴を読むと、昭和のテロである二・二六事件に多大な影響を与えているように思います。また、この破滅的なテロ行動は、引き続いて、昭和維新(明治維新の根源的なコンセプトである尊王攘夷を受けついた)を標榜し太平洋戦争へ突き進んでゆく日本陸軍の動きと重なり合うように思います。
安岡自身は、陽明学の前に朱子学を学んだようなのですが、その後、陽明学者となった安岡を慕う大正、昭和の若者たちにはその朱子学の素養はほとんどありません。ただ、彼らは、その陽明学に心酔し、『自由な心から生まれる心の正しさを尊重し、行動・実行することが肝要』という陽明学の教えに従って行動していったのではないかと思います。
その行動は、日本陸軍の横暴、日米開戦、そして、その結末は悲惨な敗戦という形になって現れました。
なぜ、あのような無謀な戦争をやったのか。
一つの答えがそこにあるように思います。
安岡は1983年(昭和58年)に亡くなりました。享年85歳。葬儀委員長は岸信介元総理、副委員長に稲山嘉寛・大槻文平・田中秀雄、委員に新井正明・江戸英雄・平岩外四が名を連ね、政界からは当時の首相・中曽根康弘、田中・福田・鈴木の各歴代首相が並んだそうです。人物としてもとても立派な方だったということのようです。
しかし、昭和の悲惨な戦争と、敗戦に至った経緯を見ると、安岡の陽明学の教えの影響は大きく、その責任も大きいと思います。昭和の戦争から、敗戦、さらに戦後復興、そして経済大国へ駆けあがった日本。その様々な場面で安岡の陽明学は顔をのぞかせているようです。
幕末の山田方谷が言ったことば、
陽明学では、私欲にかられた心で行為に走ると道理の判断を誤ることが多い
これが戦前、戦中そして戦後まで尾を引いていたとしか自分には思えないのです。
日本のこと(6)(終わり)