Tu&Aki’s Couple Life

ゲイが考える『ベトナム』『アジア』『海外旅行』『日本』『仕事・働き方』そして『大事な彼氏』のこと

日本のこと(4)

日本人のAkiです。

 

日本や日本人を考えていて、
今、儒学陽明学にたどりつきました。

 

 

tuaki.hatenablog.com

 

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その影響をさらに探るため、今回は幕末の儒学者陽明学者である山田方谷(やまだほうこく)』について書いてみます。

 

山田方谷(文化2年2月21日(1805年3月21日) - 明治10年(1877年)6月26日)は、備中松山岡山県高梁市)の人です。菜種油の製造・販売を家業とする商人の子に生まれたものの、新見藩の儒学者である丸川松隠に学び、その才を認められ、20歳で備中松山藩より、士分(武士)に取立てられ、藩校の筆頭教授に任命されました。その後、藩政にも参加、財政の建て直しにも貢献し、幕末の混乱期には藩を滅亡から回避させることに成功しました。しかし、明治維新後は多くの招聘の声をすべて断り、一民間教育者として過ごしたのです。

 

簡単に言えば、地方の学者ですね。
少し、政治にも携わりましたが、余生は官途につかず、教育に一生をささげた人ということです。

 

しかし、幕末の三傑(藤田東湖山田方谷佐久間象山)にあげられており、見識に優れ、時代に影響を与えた人です。

 

方谷は29歳のとき、京都で陽明学と出会い、このとき創始者である王陽明伝習録から朱子学陽明学のそれぞれの利点と欠点を理解し、正しい学び方を修得したそうです。 朱子学の利点は、初心者でも学問の順を追って学べば深く学ぶことができる。しかし、我が心の内を忘れて我が心が得心しているかは問わないという欠点があった。 一方、陽明学の利点は、我が心が得心しているのかを問うて人間性の本質に迫ることができ、道理を正しく判別でき、事業においては成果を出すことができる。

しかし、私欲にかられた心で行為に走ると道理の判断を誤ることが多いという欠点があった、そうです。

 
このため、方谷は弟子達から陽明学の教えを請われても安易に教えることはせず、朱子学を深く学ぶことを諭したそうです。それは、己の心のままに行為に走ってしまいやすい陽明学の欠点を熟知していたことによるからです。

 

要するに、幕末期の陽明学はあくまでも、江戸幕府が推奨した朱子学の教えがあって、初めて成り立つ(成功する)ものということになります。 

 

したがって、陽明学を信奉した人の行動は、ときに破滅的でもあります。

たとえば、大塩平八郎(江戸時代後期の儒学者陽明学者)。
江戸時代の天保8年(1837年)に大坂で大坂町奉行所の元与力大塩平八郎とその門人らが江戸幕府に対する反乱を起こしました。しかし、その決起はわずか半日で鎮圧されました。ただ、大坂の町を焼いただけでした。

幕府への反乱、これはもちろん朱子学の教えとは相いれず、ただ陽明学の考え方のみに従った行動なのです。

この反乱のことを方谷は当然知っていたと思います(同時代に方谷は生きていたので)。なので、陽明学の危うさに強い危機感を抱き、門人達には、まずは朱子学を深く学ぶことを諭したのだと思われます。

 

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岡山県高梁市中井町西方にある伯備線方谷駅 ※ネットからの引用、高梁は方谷の出身地

 

方谷が危惧した陽明学の危うさ、自分はこれが、あとに続く明治維新の成功と、軍国日本、そして破滅的な昭和の戦争(日中戦争から太平洋戦争)の理由の一つであるように思うのです。

 

さらに、幕末~明治~、をたどってみることにします。 

 

日本のこと(4)(終わり)